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横浜地方裁判所 平成8年(わ)945号 判決

主文

被告人を懲役六年に処する。

未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入する。

押収してあるライター一個(平成八年押第二七八号の1)を没収する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五四年六月にA子と結婚し、長女B子、長男Cを設け、A子の母親とともに神奈川県大和市《番地略》所在の自宅で暮らし、運送会社に勤務していた。被告人は、A子と結婚したころに競馬を覚えて、次第に熱中して行き、競馬の資金を調達するためサラ金まで利用するようになり、その借入金額も増えていったが、昭和六〇年ころ、サラ金から借金していることが被告人の勤務先会社に発覚し、会社の立替払いにより清算してもらったことから、一度は反省して競馬をやめたものの、昭和六三年ころから再び競馬をするようになり、その資金を調達するためやはりサラ金から借金をするようになった。被告人は、平成二年四月に妻のA子が病死すると、妻を亡くした寂しさもあってさらに競馬に熱中するようになり、サラ金からの借金額も増える一方で、平成七年夏ころには、月々の返済に窮し、サラ金業者から支払督促の電話が会社にまで掛かってくるようになったため、会社に居辛くなり、同年九月初めころから無断欠勤し、同月末に退職をした。このようにして収入が全くなくなったことから、被告人は、その姉妹などから借金して自己と子供達の生活費やサラ金への返済に充てていたものの、借金解消の目途は一向に立たないまま、金を稼ごうと競馬に金を注ぎ込んだりして、漫然と日々を過ごすうち、平成八年一月にはサラ金からの借入金総額も六〇〇万円に達し、どうにもできない状態になった。そうしたところ、同月二四日にB子が高校の推薦入学試験に合格し、入学金等二五万円を二日後までに支払わなければならなくなり、被告人は、やむなくその資金を長姉から借りようと思い、翌二五日に長姉のところに電話をして借金の申し入れをしたが、もはやこれ以上貸すことはできないと断られてしまい、今まで何度も金を借り頼りにしていた長姉に貸すことを断られ、他の姉妹にも繰り返し借金していて重ねて頼むこともできず、その他に借金を頼める当てもなくなって呆然とし、一方ではどうして資金を調達するかと悩みながら、同日午後九時すぎころ自宅二階の八畳間で床に就いた。

被告人は、同月二六日午前五時ころ目が覚めB子の入学金の調達や借入金の返済のことなどについていろいろ思いをめぐらしたものの、状況を打開する手立てが思いつかないでいるうち、にわかに自分の将来について強い不安を覚え、このまま生きていても仕方がないと思うに至った。そこで、被告人は、この上は自宅に放火して、自宅を焼損するとともにB子とCを道連れに焼死させて殺害し、自己も焼身自殺しようと一気に考え、ペットボトルに入ったガソリンが物置にあるのを思い出して、それを持ち出し、同日午前五時一〇分ころ、前記所在の自宅の二階において、まずB子(当時一五歳)が就寝している六畳間に入って布団やベッドの周囲のカーペット、部屋の入口付近にガソリンを撒き、続いてC(当時一一歳)が就寝している八畳間に入り、布団の周囲の畳にガソリンを撒き、さらに右六畳間入口廊下に敷いてあった足拭きマットにもガソリンを散布し、右足拭きマットにライター(平成八年押第二七八号の1)で点火して火を放ち、もって、現にB子、C及び義母D子が住居に使用している木造スレート葺二階建居宅(床面積合計約一〇三・七一平方メートル)を焼損しようとするとともに、B子及びCを殺害しようとした。しかし、B子及びCが目を覚まして、それぞれ部屋から逃げ出して焼死するのを免れ、また、被告人がその火勢に驚愕して我に返り、自己の意思により直ちにB子らの協力をも得て水を掛けるなどして火を消し止めたため、B子に入院加療を含む一〇三日以上の加療を要する顔面・両手・両足深達性熱傷等の傷害を、Cに入院加療を含む一〇三日以上の加療を要する顔面・両手・右前腕・両足深達性熱傷等の傷害をそれぞれ負わせ、また同居宅二階廊下床板、二階六畳間床板の一部を燻焼させたにとどまり、その目的を遂げなかった。

(証拠の標目)《略》

(法令の適用)

被告人の判示所為のうち、現住建造物等放火未遂の点は刑法一一二条、一〇八条に、各殺人未遂の点はいずれも同法二〇三条、一九九条にそれぞれ該当するが、右は一個の行為で三個の罪名に触れる場合であるから、同法五四条一項前段、一〇条により一罪として犯情の最も重いB子に対する殺人未遂罪の刑(ただし、短期は現住建造物等放火未遂罪のそれによる。)で処断することとし、所定刑中有期懲役刑を選択し、その刑期の範囲内で被告人を懲役六年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入し、押収してあるライター一個(平成八年押第二七八号の1)は判示犯行の用に供した物で被告人以外の者に属しないから、同法一九条一項二号、二項本文を適用してこれを没収することとする。

(弁護人の主張に対する判断)

一  自首の主張について

弁護人は、被告人には本件犯行につき自首が成立する旨主張する。

しかし、関係各証拠によれば、被告人は、本件犯行後に搬送された病院で怪我の手当てを受けている時、病院関係者と思われる人から、火傷の原因について「爆発か。」と尋ねられたのに対し、「自殺。」と答えたこと、また本件犯行の約二か月後警察官から火事の原因について聴かれ、被告人自身がガソリンを撒いて放火したことは間違いないかなどと確認されて、間違いない旨返答したことがあるに過ぎないのであって、そのような事情をもって犯罪が捜査機関に発覚する前に被告人が捜査機関に対し自発的に犯罪事実を申告したものと、認めることはできず、被告人には自首が成立しないから、弁護人の右主張は採用できない。

二  中止未遂の主張について

次に、弁護人は、判示現住建造物等放火未遂については、中止未遂が成立する旨主張するので、この点の判断を示す。

関係各証拠によれば、前記のとおり、被告人は、ガソリンを撒いた上ライターで放火した後、燃え上がった火の勢いに驚愕して我に返り、自ら両手両足で布団を叩いたり踏むなどし、さらに子供らに水を持ってくるよう叫んで、子供らが持ってきた水を掛けるなどして、自ら消火活動を行い、その結果本件放火行為は未遂に終わっていることが認められるのであり、被告人は自己の任意の意思により放火行為を中止したといえるから、現住建造物等放火未遂について中止未遂が成立する。

そこでなお、本件は観念的競合の関係にある数個の犯罪につき中止未遂が成立する場合なので、その場合の中止未遂による刑の減軽の可否を検討すると、観念的競合の関係にある数個の犯罪については、まず科刑上一罪の処理を行うので、中止未遂の成立しない罪が最も重い刑であるときは、その罪の刑で処断する結果、他の罪について成立する中止未遂による刑の減軽をする余地はないことになる(もっとも中止未遂の事情は、量刑上あるいは酌量減軽の事由として考慮されることはある。)。そして、本件においては、前判示のとおり観念的競合の関係にある三個の罪のうち、B子に対する殺人未遂の罪が犯情最も重く、その罪の刑で処断することになるので、前記現住建造物等放火未遂の罪について成立する中止未遂による刑の減軽をする余地はないといえる。

(量刑の理由)

本件は、判示のとおり、自宅に放火して子供二名と無理心中をしようとしたという現住建造物等放火未遂及び殺人未遂の事案であるが、被告人は、多額の借金を抱えながらそのための努力を何らすることなく、仕事も辞めて、姉妹から借金を繰り返すなどして漫然とした生活を送り、その娘の高校の入学金等の調達に迫られると、自暴自棄気味に本件無理心中を思い立ってすぐ行動に移し、自宅に放火して二人の罪のない子供の生命を奪おうとしたのであって、その極めて短絡的かつ利己的身勝手な犯行の動機に同情すべき点は全くない。犯行の態様も、自宅二階で就寝中の子供達の周囲やその部屋の出口付近にガソリンを撒いて点火し、自宅もろとも子供達を焼死させようとしたもので、非常に残虐で危険な方法であり、住宅が近接し延焼の危険も高く、近隣住民に与えた不安感も無視できない。子供達は、全く予想しなかった実の父親である被告人に殺害されかけ、しかも火で殺されかけたのであり、その結果顔面等に入院を含む加療一〇三日以上の重篤な火傷を負わされ、その受けた肉体的苦痛は大きく、身体には火傷による傷跡が大きく残り、のみならず子供達は心に一生ぬぐい去ることのできない大きな傷を負っており、本件が子供達の将来に重大な影響を与え続けることは容易に推察でき、さらに振り返ってみると、被告人は本件に至るまでも、どれだけ真剣に子供達の将来を考え、多感な青春時代を迎えた子供達にどの程度まで親としての責任を果たそうとしたのか疑問であり、ただ目先の自分の事のみを追う無責任な態度に終始してきたのではないかと思われるのである。以上のことからすると、被告人の刑事責任は非常に重いといわなければならない。

そうすると、本件放火及び殺人ともいずれも未遂にとどまり、放火については被告人が放火直後に翻意して自ら消火活動をしていること、現在では自分の犯した罪の重大性に気付き、親としての無責任な態度を振り返り、反省の態度を示していること、被告人にはこれまで前科前歴が無いことなど、被告人のために酌むべきいくつかの有利な事情を考慮しても、なお主文の刑に処するのが相当である。

(求刑懲役七年)

(裁判長裁判官 松浦 繁 裁判官 長谷川誠 裁判官 中尾佳久)

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